【読書】高階 秀爾『続・名画を見る眼』

続 名画を見る眼 (岩波新書 青版 E-65)

続 名画を見る眼 (岩波新書 青版 E-65)


本書は高階 秀爾『名画を見る眼』の続編だ。

『名画を見る眼』ではファン・アイクからマネまで15名の画家、すなわちルネサンスから19世紀中頃までの西洋絵画を取り上げていた。そしてこの『続・名画を見る眼』では、

その後を受けて、モネからモンドリアンまで、すなわち印象派からフォーヴィズムキュビスムを経て抽象絵画に至る近代絵画の巨匠十四人の作品十四点を対象として、それぞれの作品の成立の事情やその意味を明らかにしながら、同時に近代絵画の歴史をたどろうと試みた(p.209 あとがき)

という本だ。

個々の絵画を楽しみながら、近代西洋絵画の流れを概観する

高階 秀爾『名画を見る眼』についてのエントリでも書いたが、個々の作品について意味や歴史的背景がコンパクトにかつわかりやすく説明されているので、まるで説明を聞きながら展覧会を廻っているかのような感覚になる。加えて、本書を読み通すことで印象派から抽象絵画へという近代西洋絵画の流れを概観することができる。

私なりにその流れをまとめるとこうだ。

写実主義の徹底と三次元性の崩壊

『名画を見る眼』で紹介されていたルネサンス以降の西洋絵画はフェルメールの絵画に見られるように、いかに現実をとらえ画面上に表現するか、二次元の画面上にどう三次元を表現するかを追求する中で遠近法や明暗表現を発達させてきた。19世紀に登場した印象派は対象の個別の色彩を否定し、「光の効果」を含めてより徹底した写実主義を求めた。その光の効果を表現するために印象派が使用した技法が「色彩分割」であるが、しかし、それらは遠近法等従来の写実性を表現する技法と矛盾を来してしまう。よって印象派の絵画は奥行きを失い、平面に近づいていく(モネの『睡蓮』)。

写実主義の先に

印象派以降三次元性を失い始めた絵画だが、セザンヌは幾何学的な秩序を持ち込むことで三次元を表現しようと試みた(『温室のセザンヌ夫人』)。一方ゴーガンは「目に映る世界以上を表現したい」という欲求から、ものの形態を一つの大きな塊として把握し、表現した*1。またルソーは目に見える自然を再現使用するのではなく、非現実的なタッチによる夢の世界、作者の想像の世界、見えないはずの世界を表現しようとした(『眠るジプシー女』)。そしてマティスは、印象派によってもたらされた現実世界という虚構の崩壊のなかで、虚構の現実感よりも画面そのものの実在を強調した(『大きな赤い室内』)。
印象派がもちいた色彩分割といった技法は従来の遠近法等西洋絵画の技法と矛盾し、絵画による現実表現の限界をあらわにしたが、では絵画とはなにか?という問いの答えとしてモーリス・ドニの言葉が引用される。

絵画とは、戦場の馬とか、裸婦とか、その他何らかの対象である前に、本質的に、ある一定の秩序で集められた色彩によって覆われた平坦な面である
(p.142)

絵画とは平面である、この前提を元に絵画を構成していったのがマティスであり、ピカソである。

③ 絵画とは画面であり、平面である

「平坦な面」を絵画の前提とする中で、マティスが思いきった色使いで自己の内面表現を行った一方、ピカソは色彩よりも造形表現を追求していった。いわゆる「ピカソの奇妙な造形表現(『アヴィニョンの娘たち』『ゲルニカ』)は、対象を純粋に造形的なものとしてとらえ、分解し、そして平面の上に再構成するという意図がある。ものの形を奥行きで表現するのではなく、あくまで平面上において視点の分割およびその統合によって表現しようとした。

④ そして抽象表現へ

シャガールの「幻想の詩的表現」、カンディンスキーの「客観性とか、何かある対象の描写と言うことは不必要であるばかりか、むしろ邪魔になるものだ」というスタンス、モンドリアンの造形要素そのものの中に自立的な法則を見いだそうとする試み、それらはルネサンス以降西洋絵画がさまざまなテクニックを駆使して表現しようとしていた「客観性」・「質感」・「写実性」・「目に見たまま」・・・を超えて、抽象絵画として現れている。

抽象絵画は「奇抜」ではない

ピカソなどの抽象絵画について、私は「偶然世に現れた、とんでもない(狂気の)天才がつくりあげた作品」くらいに思っていたが、本書を読めばそれは誤りであることがわかる。

抽象絵画といえども、決して不意に生まれて来たものではないのである
(p. 210)

西洋絵画の変貌にはそれをもたらした歴史的な経緯がある、本書を読めば、その一端に触れることができる。

*1:その結果、対象がまわりの風景と解け合ってしまいそうな印象派とは違い、対象が太く明確な輪郭線で描かれるゴーガンの『イア・オラナ・マリア』だ