「恵まれてるよ」というのはやめよう

前に書いた記事の焼き直し。


私は職場の近しい友人に「いやー仕事でこんな嫌なことがあってさー」や「うちの職場の○○がよくない」みたいな愚痴をこぼすことがあるが、その時の返答として

「いや、うちはまだまだ(ほかの部署・会社に比べ)恵まれているよ」

というのがある。この「恵まれているよ」というのがたまらなく嫌だ、というお話。

嫌なものは嫌だ、というはなし

嫌悪感は相対的にとらえるべきものではない。あなたにとって嫌じゃなくても、私にとっては嫌なものは嫌だ。ほかの人はもっとひどい目にあっているのかもしれないけど、そんなの知らない、とにかく私は嫌だ。「恵まれているよ」といわれても、私が感じた嫌悪感がぬぐわれるわけではない。

恵まれているかどうかそんなの知らねえよ、嫌だったんだ!むかついたんだよ!といいたくなる。



この「恵まれているよ」の背景には、「まだいいほうなんだから、お前は(我々は)我慢するべき」という思いが潜んでいるのではないか。そんなこといっていたら、最もひどい仕打ちを受けている人以外は、我慢しなければならない、という理屈になってしまう。

「恵まれているよ」ということで改善の芽を摘んでしまう

この「まだいいほうなんだから、お前は(我々は)我慢するべき」という考えがはびこると、人が嫌だと思うこと、人に嫌だと思わせる組織の欠陥を放置してしまうことになりかねない。「○○はよくないと思うけど、我々はまだ恵まれたほうだから我慢しなきゃ!」という具合だ。

逆であるべきだ。

そこになにか問題があるなら、改善・解決するべきだ。そして我々が「まだマシ、恵まれている」のであれば、そういうところからこそ小さな改善をしていくべきではないか。そしてより大きい(「より恵まれていない」ところの)問題解決に向かっていくべきではないのか。

グローバル化のなかでトップを走るような会社に!」などというが(私の職場も似たようなこといっているが)、なぜ職場環境もトップを目指さないのか。なぜ「トップを目指そう!」と息巻いているひとたちが、「恵まれてるよ」などと、現状に満足するようなことを言うのか。


「恵まれているよ」という言葉は、改善・問題解決の芽を摘んでしまう、思考停止のことばだ。


だから、恵まれているよなんていわないで、わたしの愚痴を聞いてください(ω)