【読書】『説得―エホバの証人と輸血拒否事件』

ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録につづいてものみの塔関係の書籍を読む。

説得―エホバの証人と輸血拒否事件

説得―エホバの証人と輸血拒否事件


1985年6月、川崎市の路上で交通事故に遭い救急搬送された「大ちゃん」。複雑骨折など重傷を負い、手術等治療を行おうとした医師団だったが、両親および本人はエホバの証人(事件当時大ちゃんは洗礼を受けていなかった?)であり、両親は強い輸血拒否を示した。医師団が説得を試みるも両親は譲らず、大ちゃんは亡くなった。
この事件の報道で、大ちゃんが「生きたい」と言ったとされ、それにもかかわらず輸血を許可しなかった両親に避難が殺到した。

この事件に関心を持った、自らも元証人(洗礼を受けてないから証人とは言わないのか?)だった大泉氏が証人、医師、そして両親と交わり真相を見つけようとするノンフィクションだ。


事件の概要は輸血拒否 – 1985年大ちゃん事件 | エホバの証人研究などに詳しい。

「生きたい」という言葉をめぐって

「生きたい」、少年は捜査権で死んでいったという。
私は知りたかった。少年はなぜそう叫んだのか。そして、少年の意志はどこにあったのか。
(本書、p. 4)

大泉氏は大ちゃんが発したとされる「生きたい」という言葉に惹かれ、教団に入り込んでまでの調査を始める。
マスコミは「生きたい」という言葉を「この世に生存したい」というそのままの意味で受け取り、両親をたたいていた。しかし大泉氏が調査をして見えてきたのは、「生きたい=死にたくない」という言葉の意味はエホバの証人的な、「永遠の死」を指していたのではないか、ということだった。エホバの証人は輸血が禁じられている。禁則事項を犯すことは「楽園」に入ることができずに滅ぼされてしまうことにつながる。よって大ちゃんは滅ぼされたくない、つまり「永遠の楽園で生きたい」といったと言う可能性だ。

さらに医師たちに話を聞くと、これまでの考え方を否定されるような証言が得られる。

大ちゃんは「生きたい」とは言っていないという。
医師たちはそんな言葉は確認していないという。

ではなぜ「生きたい」といったなどと、大きく報道されているのか。それは大ちゃんの父親・荒木さん(仮名)が事件直後インタビューに対して「大が「生きたい」と言ったように聞こえた」と発言したからのようだ。荒木さんは大泉氏にこう言う。

ふつう、小学校五年くらいの子供が、死の瀬戸際に立って、生きたいか、と聞かれたら、生きたい、と答えると思うんですよね。それ以上の意味はないと思うんです。
(本書、p. 306)

医師たちは言っていないという、しかし荒木さんは聞こえたと言う。
「それ以上の意味はない」、生きたいという言葉の真意、これをめぐって読者も渦巻きの中に吸い込まれていくような感覚を覚え、本書は終わる。


生きたい、とは、なんだろうか。

理論的であること、そして「跳ぶ」こと

最後に本書の本筋とはあまり関係ないことについてひとつ触れたい。
私は【読書】『ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録』 - 準備運動のなかで

私の認識(偏見)では、宗教を信じる人たちは聖典や神話など、「曖昧なものをわけわからんけどとりあえず信じる!信じちゃう!のひとたち」だと思っていた。だが、本書を読む限りエホバの証人たちは理論的であることを重要視しているようだ。あらゆることの根拠を聖書にもとめ、そこから論理的に(とおもわれるように)さまざまな物事を説明していく、説明しようとする。
【読書】『ドアの向こうのカルト ---9歳から35歳まで過ごしたエホバの証人の記録』 - 準備運動

と書いたが、宗教を信じるということが徹頭徹尾理論的であることはできないだろう、と感じていた。それゆえの「信仰」であろう、と。

理論的であることが信仰になる。
本書ではそれを「跳ぶ」と表現しており、この表現が私にはとてもしっくり来たのだ。そうか、飛躍するんだ。理論的に、演繹的に思考を積み重ねながら、最後の最後では非演繹的に思考のジャンプがあるのだ。

「研究が進んでいくうちに、”よし、これに賭けよう"と思うようになったんだね」
ある宗教に関心を持つ。次々と教義を理解していく。矛盾はないか、しっくりこないところはないか。理論的にどんどん詰めていくと、ある究極的な一点で、人は先に進めなくなる。その先に進むためには、もはや跳ぶしかないのだ。宗教が"賭け"であると最初に論じたのは、いったいどこの誰だったろう。
(本書、p. 235)

信仰とは、跳ぶことなんだ、とおもった。