絶対評価は「みんながんばったから優ね!」という制度ではないよな

東大が「優」成績者を3割に限定 成績評価見直しで「質」を確保 (1/2) : J-CASTニュース

記事を見る限り、各成績カテゴリーに割り当てられる人数を(緩くではあっても)規定する相対評価の導入のようだ。東大でも一部の学部で行っていたようだし、他大学でもすでに導入しているところがあるようだ、知らなかった(反省)。

ちょっとそれどうなのとおもったことひとつだけ。

乱暴にまとめると「質保証」のニーズがあるから相対評価に、ということのようだが(国内国外問わず対外的に信頼性を高めたいということのようだが)、そのロジックはおかしい。「相対評価による質保証」というのはよくわかるようでわからない。

相対評価ということはある集団の中で自分がどこに位置づけられるか、ということだ。相対評価で「優」をとったとしてもそこから導き出されるのは「私はこの集団の中で上位○%です!」ということでしかない。極論すれば、ある授業の到達目標に達しているかどうかは関係なく、集団の中で上位に位置すればそれで「優」がつく。

「質保証」(この学生は○○ができるんです!)をしたいのであれば、それこそ絶対評価ではないだろうか。
絶対評価というのはある絶対的な基準が存在し(たとえば試験で何点、であったり、○○ができるようになる、であったり)、それをクリアしなければ評価が与えられないというシステムだ。そのようなきちんとした絶対評価であれば、その評価システムで一定の成績を取得した学生は「○○が(△△というレベルで)できる」ということを保証されているのだ。(たまに本気で言う人がいるのだが)絶対評価は「はーい、みんながんばったから優あげるねっ!」というシステムでは決してない。

今回の東京大学の施策のように「優」の人数を制限することで学生の競争意識を促したり、教員の成績評価に対する意識づけをかえたりする効果があることは確かだろう。しかしながら、「現在の(絶対評価的な)成績評価システムでは質保証ができない」という問題意識にたっているのだとすれば、より優先的にするべきことは相対評価的システムの導入ではなく、明確な「到達目標・基準」と、学生がそこに到達しているかどうかを正確に測定するテスティングの整備だろう

大学教育においてはその多様な授業・指導のありかたなども考慮すると、相対評価よりも絶対評価を(より徹底した形で)適用するべきだと考える。

最後に欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)から引用する。

苅谷(引用者註:教育社会学者の苅谷剛彦氏) それから、絶対評価だけに、到達できないときに貼られるレッテルというのは、自分が他の人と比べてどうか、じゃない。何々ができませんでした、というレッテルを貼られる。一〇〇人の子のうち、九六番と九八番のこの差で劣等感を持つのと、何点以内だったらある水準から上です、基準に到達できました、というのと、全然違う話じゃないですが。そのかわり、基準に達しなかったら、○○はできない、というレッテルが貼られる。
(中略)
日本の仕組みでは、絶対評価を「個別評価化」してしまっていて、絶対評価とはいえ、「共通の絶対的な水準」ではないように読み替えてしまったからです。一人ひとりがどれだけ伸びたかという個別評価と絶対評価を組み合わせてしまうと、ただ「あなたは、一学期と比べて、よくできました」ということになってしまう。だから、知識や能力がある水準まで到達しているかいないかという、プレッシャーがかからなくなってしまう。
(欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)、p. 185-186、強調引用者)