【読書】飾りじゃないのよレトリックは/ 『レトリック感覚』・『レトリック認識』

レトリックはなんのためにあるのだろうか、どんな役割があるのだろうか。


文章を飾るため?文章をちょっと気取った感じにする役割?それとも人をだますテクニック?


それだけではない。
レトリックには「発見的認識」という役割が、ある。

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック認識 (講談社学術文庫)

レトリック認識 (講談社学術文庫)

レトリックが持つ3つの役割

レトリック、すなわち「ことばのあや」には3つの役割があると著者の佐藤信夫は言う。
①印象的な説得力、②芸術的な挑発力、そして(これをしめすことが佐藤の狙いであるが)③発見的認識の造形、という役割である。


普段私たちが「レトリック」と聞いたときに思い浮かべるイメージは①と②であろう。

良いイメージで語られることがある一方、「そんなレトリックにだまされない」・「安易なレトリックに頼るな」などと、どちらかといえば良くないイメージ、「余計なもの」・「飾りもの」といった含意を持って使われるのが「レトリック」だ(日本語では「修辞」・「ことばのあや」などともいわれる)。


実際にこうしたイメージは正しい。いや、こうしたイメージ正しい、というべきか。


筆者の佐藤はレトリックが持つ「文章を印象的に見せる技術」・「人を説得する(時にはだます)技術」という側面を否定しない。
レトリックおよびレトリック研究が磨き上げてきた技術的側面とその理論を認め、そして技術学として積み上げられてきたレトリックに関する知見をいまいちど見直すことで、その第三の役割、発見的認識の造形という側面に光を当てようとしたのが本書2冊だ。

2冊でひとつ

『レトリック感覚』・『レトリック認識』の2冊の違いについて、筆者はこう述べている。

『レトリック感覚』であつかったいくつかの《あや》は、直喩、隠喩、換喩など、おもに比喩的感覚にもとづく転義的な認識と表現の形式であったが、本書(『レトリック認識』:kotaro註)ではむしろ、特異な動きをしめす認識の型そのものにかかわる《あや》、いわば認識の動態をとらえようとする表現の形式を、重点的に吟味するつもりである。
(『レトリック認識』、p. 15)

『感覚』と『認識』で通底しているのは「発見的認識の造形」というレトリックの役割に光を当てることであり、光の当て方は違えども、2冊で1つのテーマについて書かれている。


「発見的認識の造形」とは何か

本書のテーマである「発見的認識の造形」はたとえば以下のようなものだ。

直喩

駒子の唇は美しい蛭の輪のやうに滑らかであった。
川端康成『雪国』、引用は『レトリック感覚』、p. 80)

これは駒子の唇を「蛭の輪」にたとえる「直喩」というレトリックである。

さてこの直喩は、「文章を印象的に見せるためのテクニック」であり、場合によっては「余計な装飾」であるのだろうか。

たしかにそうした側面もあろう。しかし、同時に駒子の唇は「美しい蛭の輪のようだ」と例えるほかなかったのだ、と言うことも出来る。

そもそも「蛭の輪のようだ」と言われて、それがどのようなものがイメージできる人はどのくらいいるのだろう(私は出来ない)。

川端康成はただたんに「きれいな唇」と言うべきところに余計な装飾を施したわけではない。

唇と蛭の輪のあいだに類似関係を発見し、その意外な類似関係を提案した。直喩というレトリックがこうした類似関係を著者に、そして我々に認識させ、発見させた。

転喩

もうひとつ例を挙げる。今度は「転喩」というレトリックだ。

転喩の定義は、「先行するものごとを意味させるために後続するものごとを、あるいは後続するものごとを意味させるために先行するものごとを言いあらわす」(『レトリック認識』、p. 94)といったところだ。

孝が利雄の腕を枕にして、
「いんちき」
と口を尖らせたような口調になった。利雄はしつっこく続けた。
「きょうだい」
孝の返事はもうなかった。返事のかわりに、利雄の腕の上で孝の頭が重くなった
井上ひさし『四十一番の少年』、引用は『レトリック認識』、p. 99:強調kotaro)

「返事はもうなかった」と「孝の頭が重くなった」は眠ってしまったという理由に後続する転喩表現である、と説明できる。

それではこの転喩は、「いつのまにか眠った」という平叙表現の変わりなのだろうか。

それは違う。

事実としてこの場面は、利雄と孝がしりとりをしていて、利雄が「あれ?なんか孝の返事がないし、腕が重くなった」と感じ、そうしたら孝は眠っていた、という流れになるだろう。


すなわち「転喩表現のほうが現実的だからこそ印象的なのであって、平叙表現としてしめされているほうの文は、論理的な構築物にすぎない」(同書、p. 104)のだ。

辞書に載っている「眠る」という単語をもちいずに、「返事はもうなかった」と「孝の頭が重くなった」ということばでより正確に世界を認識し、切り取る。
これがレトリックの役割だ。


まさに、

飾りじゃないのよレトリックは

である*1


中森明菜 LIVE 2006 The Last Destination 飾りじゃないのよ涙は ...



「素直な文章」を書くために

文章を書くときに「安易なレトリックに頼らず、素直にあなたの気持を書きなさい」とアドバイスされたら、「あぁそうだよなあ」と思ってしまいそうである。

しかし本書を読むと、このアドバイスはちょっと違うのでは、と考えるようになる。

森羅万象のうち、じつは本名をもたないおののほうがはるかに多く、辞書にのっている単語を辞書の意味どおりに使っただけでは、たかの知れた自分ひとりの気もちを正直に記述することすらできはしない、というわかりきった事実を、私たちはいったい、どうして忘れられたのだろう。本当は、人を言い負かすためだけではなく、ことばを飾るためでもなく、私たちの認識をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要だったのに。
(『レトリック感覚』、p. 26)

「この気持ち、表現したい!」・「心にもやもやしていることを伝えたい!」そうした時には文法も論理も必要だろう。しかし文法と論理が必要であるのと同じくらい、レトリックもまた必要なのだ。本当の気持ち、素直な気持ちを表わすために、レトリックが必要なのだ。

世界を新たに認識するためでもあり、認識した世界を表現する技術でもある、それがレトリックだ。


1日1レトリックをめざそう!(個人的な話)

本書を読みレトリックの力と役割に驚いた私は、もっともっとレトリックに敏感になってそれを味わってみよう!という気分になった。

そこで30-day challengeを使って、「1日1レトリックあつめ」を実行することにした。


「普段読んでいる本やウェブページ、仕事の書類を注意深く読めば、きっといろいろなところでレトリックが使われているはずだ」という認識の元、1日に最低1つはレトリックを見つけ、それが『レトリック感覚』・『レトリック認識』で紹介されているカテゴリのどれに属するかを考える、というchallengeだ。


30日続けたときには、今よりももっとずっとレトリックに対して敏感になれていると思うし、本書で紹介されていたレトリックの深い理解にもつながると考えている。


がんばれよ、自分。

*1:正確には「飾りというだけじゃないのよ、レトリックは」と言うべきか