【読書】死刑の実態に迫る/青木理 『絞首刑』 Part 2

【読書】「考えさせられる」なんて言えない/青木理 『絞首刑』 Part 1 - 準備運動の続き。

絞首刑 (講談社文庫)

絞首刑 (講談社文庫)

本書は「死刑」に関わる人への取材を通じて、その実態に迫ろうとするものだ。
読んでいて強烈に感じたのは、死刑について自分は何も知らないんだなぁということだった。

「死刑」に関する事実を知る

日本国民の8割が死刑制度に賛成しているというが、国民はどれだけ死刑について知っているのだろうか。

著者は本書の中で、日本の死刑執行における異常なほどの閉鎖性を批判する*1。この閉鎖性の中で、国民は死刑制度の是非について判断するだけの情報をもてていないのではないか。
じじつ、私は本書を読んで、初めて知ることが多くて戸惑った。


本書執筆の動機として筆者はこう述べている。少し長いが引用する。

死刑問題を語った文献や書物は過去にいくつもある。しかし、多くは法律や理念的な観点からの死刑制度論であったり、被害者遺族の立場や死刑廃止運動の立場などに寄り添って「是非」の姿勢を明確にした上で紡がれたものだった(中略)だが、死刑に関わる人々―執行にあたる人々はもちろん、死刑囚や被害者の遺族までを含む人々―の心中に渦巻いているだろう感情の深淵を、現場取材で多角的に、包括的に描いたノンフィクションやルポルタージュ作品は見当たらなかった。
 だから私たちは、死刑制度の是非を考える前提としての事実を、死刑という刑罰に否応なく関わらざるを得なくなった人々の心の襞を、現場取材によって提示できないだろうかと大それたことを考えた。
(p. 323)

筆者は死刑制度に対して是非の姿勢を明確にしていない。あくまで議論のための事実に迫っている。

そしてその事実に迫れば迫るほど、「是非の姿勢を決める」ということが難しいと感じるようになると、私は感じた。しかし、その難しさを感じずに、是非の議論が出来ないとも思う。

死刑は制度だ

日本の死刑執行における秘密性というのは、我々国民の「死刑について考えるにしても、死刑執行自体は考えたくないし、見たくない」という気持ちの表れなのかも知れない。

本書の中で印象的だった部分がある。木曽川長良川連続リンチ殺人事件の被疑者三人の死刑がほぼ確定した際、三人の死刑執行時期についての考えを聞かれた被害者遺族のひとりはこういった。

「五年後になろうと、二十年後になろうと、それはもう、どうでもいいことです。私にとっては、今日の『死刑』という判決がすべてですから」
(p. 298)

それに続いて筆者はこう述べる。

死刑を求め続けた遺族にしても、その執行という究極の情景までは考えたくないのかも知れない。私にはそう思えて仕方なかった。
(p. 299)

遺族の心情が良い悪いとかそういうことではない。
しかし、多くの国民が賛成し、遺族が求める「死刑」、それはどこか抽象的で、実態のないもののように扱われてはいないか、と私は思った。

あたりまえだが死刑とは抽象的なものでは決してなく、極めて具体的な行為である
死刑を宣告するものがいて、宣告されるものがいる。死刑を執行するものがいて、されるものがいる。死刑執行を伝えられるものがいて、それに対して心が動く人間がいる。間違いなく複数の関係者を包括する、具体的な行為だ。

この認識なくして、死刑について語ることはできない。

多くの人を巻き込む死刑という行為、それをどう議論していくのか。
この認識をわずかでも与えてくれるのが、本書であると感じた。この認識を一人でも多くの人と共有したいと感じた。

さいごに:死刑囚を「殺してほしくない」と思った筆者

本書の最後には、木曽川長良川連続リンチ殺人事件における死刑囚のひとり「小森」と筆者の面会の場面がある。

死刑確定を控え、おそらくは最後の面会において、ふたりはアクリル板越しに「握手」をして別れる。そして筆者は、小森を「絶対に、殺してほしくない」という想いを抱いたと告白する。

筆者は死刑についての是非を本書中では留保している。そんな著者でも小森に対してうえのような感情を持った。

「殺してほしくない」から死刑には反対、そんな論理はあまりに安直であるが、しかし著者の想いは、死刑の実態に迫った者が喚起される感情として、当然のものであったように、私には見える。



著者が死刑囚を前にして抱いた感情を、我々は本書を通じて少しでも感じることにしよう。

*1:死刑確定囚とは手紙のやりとりや面会が厳しく規制されるなど