【読んだ】ここにいるのは「私たち」そのものです/『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』

吃音*1の女子高生・志乃ちゃんは、とくに母音から始まることばがいいにくい。高校生活最初の自己紹介で自分の名前(大島志乃、おおしましの)がうまく言えずに笑われてしまう。

ひとりぼっちの彼女だが、あるきっかけから「かよちゃん」と友達になり、デュオ「しのかよ」を結成、文化祭で歌を歌うことになる。そこにクラスメイトの「菊池くん」が加わるが、かよちゃんと菊池くんの会話に入れない志乃ちゃんは、逃げ出してしまう・・・。

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない


先日、吃音に苦しむ看護師が自殺してしまうという悲しいことがあったが、それを報じた朝日新聞の記事中でも、この漫画が言及されていた。ずっと気になっていてやっと手に取った。


「吃音漫画にはしたくなかった」

みずからも吃音症だという作者の押見修造氏はあとがきで、この漫画を吃音漫画として描いたわけではないと言う。

この漫画では、本編の中では「吃音」とか「どもり」という言葉を使いませんでした。それは、ただの「吃音漫画」にしたくなかったからです。
とても個人的でありながら、誰にでも当てはまる物語になれば良いな、と思って描きました。
(本書、「あとがき」より)

この漫画が印象的な理由のひとつは、まちがいなく志乃ちゃんの吃音症であり、吃音章に苦しむ志乃ちゃんの葛藤にあることは間違いない。しかし、吃音症でない人がよんで、吃音症でもがんばる志乃ちゃんを応援したくなっちゃう!とか、本書を通して吃音症を理解できる!とか、そういった類いの漫画ではない。というか、一巻読みきりで吃音症が理解できるわけがない。

そうではなくて、この漫画が印象的な(私にとっての)最大の理由は、押見氏がいうように「誰にも当てはまる物語」であるからだ。


志乃ちゃんは吃音という症状によって、その症状を持たない人に比べ、音声言語でのコミュニケーションがうまくいかない。

友人のかよちゃんは音楽が好きでギターを弾くけれども、音痴であることがコンプレックスで、人前で演奏することが出来ない。

途中加入の菊池くんは一見「リア充」に見えつつも、周りが見えずに暴走してしまうことがある。そして、志乃ちゃんへの優しい想いすら、うまく伝えることが出来ないでいる。


この漫画の主要登場人物3人は、皆なにかしら「難しさ」を抱え、時にみずからの抱える難しさに翻弄されながらも、どうにかこうにか前に進んでいこうとする。

わたしたちはどうか。
わたしたちもみな、きっとなにかしらのかたちで難しさを抱えているはずだ。そしてその難しさに翻弄され、悩み、傷つきながらも毎日を生きている。その意味で本書は「誰にも当てはまる物語」になり得ているのではないかと感じた。


漫画の中にいるのは「彼ら」じゃない、「私たちそのもの」なのだ。
心に残る実況伝説 - YouTube


ある制約の中で紡がれたことばのするどさ

この漫画を読んで思ったのは、制約の中で紡がれたことばは鋭いなあ、ということ。

志乃ちゃんはなかなかうまく話すことが出来ない、だからそもそもあまりしゃべらない。
しかし、心の中で葛藤を積み重ね、最後の最後になんとかして発せられる志乃ちゃんのことばは、どれも重く、鋭い。

ものごとをより優れたものにするためには、「制約」というのは排除すべきものとおもわれるかも知れないが、そうとも限らない。

ヘミングウェイは非常に禁欲的というか、ある種みずからの文章表現に「制約」をかけ、それによってあのシンプルでありながら鋭い文体を生み出した。

また最近話題の佐村河内氏騒動について、森下唯さんがブログで言っているように

制約があってこそその枠内で創意工夫を凝らして良いものができることだってある。
森下唯オフィシャルサイト » より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~

ということもある。

志乃ちゃんのことばは吃音症という制約をかけられたがゆえに、彼女の中で磨かれそして鋭さを増し、いざことばとして発せられたときには作中の登場人物はもちろん、読者の気持さえもゆさぶるものになったんだろう。


志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

*1:この漫画のあとがきでも説明があるが、吃音には「連発型」と「離散型」があるそう。連発型とは最初の音が連続してしまう型であり、離散型とは最初の音がでてこない型だ。吃音は「どもり」とも言われて、イメージされるのは「連発型」だと思うが、この漫画にでてくる、母音から始まることばが言いにくい志乃ちゃんはどちらかというと「離散型」かもしれない