【読んだ】「解釈変更派」を知るために/『日本人のための「集団的自衛権」入門』

現・自民党幹事長、石破茂氏の『日本人のための「集団的自衛権」入門』を読んだ。

日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)

日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)


どちらかというと『集団的自衛権入門』や『政府の憲法解釈』など、解釈変更に否定的な立場のものを多く読んできたため、いわゆる「解釈変更派」の主張も抑えておきたかった。



本書は2つの章からなる。「第一章 「集団的自衛権」入門編」および「第二章 「集団的自衛権」対話篇」である。

第一章は「自衛権」および日本国憲法とその解釈における自衛権の位置づけについて基本的なことが解説されている章だ。
国連憲章によって戦争が違法化されていること、日本において個別的自衛権のみ認められ、集団的自衛権は行使できないとされてきたこと、などをおさらいした上で、解釈の妥当性について疑いを投げかけ、解釈変更による集団的自衛権容認の道筋を示す。

第二章はおもに「解釈変更反対派」から想定される質問にQ&A形式で答えていく。具体的な想定質問は「個別的自衛権で何とかなるのでは?」・「地球の裏側で戦争するつもり?」などなど。


全体的に非常にオーソドックスな話・構成でまとめられていると感じた。解釈変更派の論理を知るには手頃で良い本だとも思った。

「解釈変更」の妥当性という観点から見ると

集団的自衛権に関する憲法解釈とその変更についてはさまざまな立場からさまざまな意見があるところであり、私としては本書の中で石破氏が展開する主張のいくつかには、うなずくことができない。
しかしその点は置いておいて、今回私は「9条の政府解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認することの妥当性」についての説明が本書でどのようにおこなわれ、どの程度説得力を持つかに注目して本書を読んだ。

石破氏は、集団的自衛権について政府が「国際法上保持、憲法上行使不可」としてきたその根拠を疑い、政府解釈の妥当性を問う、としていくつかの論点をあげている。が、しかしこの部分が正直よくわからない。

たとえば「交戦権」の放棄を根拠に集団的自衛権行使を否定する論については以下のように書かれている。
1954年下田武三外務省条約局長が衆議院における答弁で「交戦権がない国とは、どの国も共同防衛協定を結ばない。従って(集団的自衛権の行使は)不可能である」と述べた。それに対して石破氏は、集団的自衛権の行使に共同防衛協定は必須ではなく、交戦権を持ち出して集団的自衛権行使を否定するのは苦しい、とする(pp. 66-69)。

しかし、なぜこの議論がここでひかれているのかがよくわからない。集団的自衛権の行使不可を論じるのならば、その政府解釈に正面からあたっていただきたかっただけに、肩すかしを食らったような印象だ。

さらに、「持っているけれども使えない権利」などというのはおかしい(p. 71)というおなじみの議論もされている。これについては一言「おかしくない」としか言いようがないし、歴代政府もその立場を取っている。たとえばオーストリアは永世中立国で他国と同盟関係を築いていない。国際法で認められている国家間の同盟締結の権利を、国家として制約するということはおかしいということであれば、オーストリアの永世中立もおかしなことになってしまう。


加えて石破氏は以下のように述べる。

「個別的自衛権の行使ができる」ということと、「それ以外はできない」ということはまったく別の話です。憲法には、集団的自衛権を否定する直接的な表現はありません。「国際紛争を解決する手段としての武力の放棄」がそのまま集団的自衛権の否定にならないことは先に述べたとおりです。
(p. 85)


言わんとしていることはわかるけれども、歴代の政府がとってきた「わが国への直接の武力攻撃を個別的自衛権の発動要件とし、その用件がない場合の(わが国からの)武力行使は違憲であり、集団的自衛権の行使はその要件が満たされないため違憲である」という解釈が法理的に見てどう不適切であり、そしてどうして集団的自衛権の行使容認が法理的に認められるべきなのか、という説得力ある回答にはならない。

ちなみに「憲法には、集団的自衛権を否定する直接的な表現はありません」というが、交戦権および戦力を放棄した日本国憲法の中に、集団的自衛権を容認できる表現が見当たらない、というのが今までのような「行使不可」という政府解釈がとられてきた要因でもあるだろう。

政府の憲法解釈』で阪田氏は

仮に第9条を集団的自衛権の行使を禁じる規定ではないと解するとした場合、同条第2項の戦力の不保持や交戦権の否認の意味を説明することが極めて難しくなるのである。「戦力」に関しては、もし集団的自衛権の行使のために必要な実力ないし実力組織が同項の禁止する「戦力」に当たらないとすれば、その質的・量的な限界を(個別的)自衛の場合のように論理的に画せるかどうか疑問がある(限界を画せないとすれば、法規範として無意味になる)し、「交戦権」を有しないままで現に生じている戦争その他の武力紛争にいずれかの陣営の一員として加わることも想定し難い。
(p. 60)

と述べている。
集団的自衛権の行使容認については「現実的な問題への対応」ではなく、憲法の文理上、法理上適切であるかどうかで判断されるべき問題だ。そして現時点で私が感じるのは、解釈変更によって集団的自衛権行使を容認することは不適切であり、本件は憲法改正によって実現するべき課題である、ということだ。


本書の中で石破氏は、集団的自衛権の行使容認が日本にとって必要なことであり、それは「戦争をするため」ではなく「どうすれば「戦争をしない」状況を合理的に作れるかを徹底的に考え抜いた末の結論」(p. 6)であるとしている。それはそれで筋は通っていると感じるし(私個人はそれに与せないとも感じるけど)、主張として発信し議論することは必要であろう。

しかし繰り返すが、この主張、すなわち集団的自衛権行使の容認、を実現するためには、解釈変更という法理上極めて疑わし方法ではなく、憲法改正という方法をとってしかるべきだ。