私の半径3メートル以内の集団的自衛権議論

トピック「集団的自衛権」について


安倍首相が憲法解釈の変更による行使容認を目指すことを表明し、話題になった集団的自衛権。そして先日、実際に憲法解釈変更の閣議決定がなされた。

集団的自衛権の行使を認めた閣議決定(全文):朝日新聞デジタル

(↑これだけ読んでもよくわからないし、そもそも読む気にもならないよね)

私の周りの集団的自衛権議論

タイトルの「半径3メートル以内」というのは、「私の身近の人たち」くらいの意味。

私は集団的自衛権議論に関心を持ち、書籍などで勉強していた(記事一覧 - やすらか生活への準備運動)。また、私の友人などもこの問題に関心が強い人が多く、直接議論したこともある。そうでないひともSNS上で意見を表明したりする人が多くいたので、いろいろな人のいろいろな意見を聞き目にすることがあった。

集団的自衛権に対する態度としては、賛成反対両方いたが、どちらかといえば「反対派」が多数派という感覚をもっている。私自身も否定的態度をとっているので、そういう人たちが周りに多いのは当然といえば当然なんだけど。

説得のアプローチ

SNS上などで意見表明している人たちは、集団的自衛権に賛成のひとであっても、反対のひとであっても、自分たちとは意見を異にする人たちを「説得」しようとしていた。私も「集団的自衛権大賛成!!」と言っている知り合いには、議論を通じて意見を変えてもらいたい=反対派になってほしいと思ったし、実際に議論もした(「反対派」になったかどうかは疑わしいけど)。もちろんそれは、相手の主張をリスペクトしながらも、冷静にかつ論理的に行ったつもりだ。



さて、それでは「説得する」とき、どのようなアプローチで行えばよいのだろうか。行えばよかったのだろうか。



集団的自衛権の議論においては大きく分けて2つのアプローチがあると思っている。
ひとつは「集団的自衛権行使(およびその容認)そのものの是非」を問う、というアプローチともうひとつは「集団的自衛権容認の合憲性」を問う、というアプローチだ。

前者は現在の日本の置かれた状況、および世界の情勢を考慮に入れたうえで、集団的自衛権を行使すること(もしくは行使を容認すること)が以下に必要かつ適切か、もしくは不適切かを論じるアプローチだ。

対して後者は、集団的自衛権の行使そのものの判断はさておき、現行の日本国憲法下で集団的自衛権を行使できるという解釈自体の是非を問題にするアプローチだ。




※なお、「反対派」としての私の立場は前者とも後者とも否定的に考えるものだ。すなわち、集団的自衛権の行使そのものについても否定的(やるべきではないと考える)だし、集団的自衛権行使の合憲性については非常に大きなクエスチョンマークをつけたい。



そして私のまわりで行われていた議論を見る限り、多かったのは前者、すなわち「集団的自衛権行使(およびその容認)そのものの是非」を問う、というアプローチだった。
「賛成派」は集団的自衛権の行使を容認することが、安全保障政策上いかに必要かを主張した。「反対派」は集団的自衛権の行使容認が、いかに国益を損なうかを主張した。
憲法解釈を変更することの是非を問う声もあったにはあったが、「解釈改憲にも問題はあるけど・・・」といったかたちで、メインテーマにはなっていなかった。



ここで残念だったことは、「反対派」の人たちの多くが「集団的自衛権の行使が容認されると、日本が戦争をする国になる!」、「自分の子どもたちが戦場に送られる!」というレトリック(?)で「説得」を試みていたことだ。

集団的自衛権の行使が容認されることで、そして現行憲法下で行使を容認してしまうようなあまりに信用のおけない政治権力のもとでは、「日本が戦争をする国になる!子どもが戦場に送られる!」という主張それ自体は「笑えない」ほどリアルに感じられるし、断じて謝りであるとは言えない。しかし、このような主張の方法は「反対派」に「んなわけねーだろアホか」というカウンターを許す余地を与えてしまう(少なくとも私の廻りの議論ではそうだった)。極端に言えばこんな感じだ。


賛成派:集団的自衛権必要だよ!
反対派:日本を戦争する国にしちゃダメ!
賛成派:戦争なんかしねーよ安部ちゃんもそういってるだろ。
反対派:信用できない!自分の子どもが兵隊にとられるかも!


というやりとりを立場を決めかねている人が見たとき、反対派の分が悪いと思うのは私だけじゃないはずだ。誤解を恐れずに言えば、現実に向き合い冷静に議論する賛成派に、理想と過剰な不安をぶつける反対派、という構図に見えてしまう。


では、どうすればよかったのか。
ここ数ヶ月の議論に限って言えば、私を含め「反対派」は「解釈変更による集団的自衛権の行使容認は、合憲でない」点を強調して説得にかかるべきだったのではと思う。その理由は集団的自衛権の行使容認そのものについての議論が理念的な側面を多分に含むのに対し、その合憲性を問うことはより技術論的な側面が強いからだ。

つまり、「集団的自衛権行使容認に賛成か反対か」と問うと各自の政治的理念のぶつかり合いになって収拾がつかなくなる。一方、「集団的自衛権は合憲か違憲か」という問いは、法律論の問題であり、論理で議論を進めることができる(=ちゃんとした論理を持っていれば「説得」がしやすい)。

憲法9条、13条、65条、73条などの条文とそこから展開できる論理で「集団適時政権の行使容認を、憲法解釈の変更によって行うことはできない、なぜなら合憲でないから」ということを、説明できれば「賛成派」を説得できたのではないか。いや、集団的自衛権の行使容認をするべきだ!という意見を変えることはできないかもしれない、しかし現時点で安倍首相が行っているような解釈変更による行使容認については認められない、という主張をわかってもらうことはできたのかもしれない。


そういうことを考えると、私を含め、私のまわりの「賛成派」は「説得の戦略」をまちがえたのかも知れないなぁ、と思った。

半径3メートル以上にも言える

このことは私のまわりの議論に限らず言えることだと思う。
ニュースや新聞を見ると、どうも行使容認そのものの是非と、その合憲性の議論が一緒になって(ごちゃごちゃになって)なされていると感じた。

首都大学東京の木村草太さんがラジオか何かで「憲法学者として、山に登るかどうかの議論はあるが、そもそもこの登山口からは登れない」という感じのことを言っていた。ふたつの論点ははっきり分けたうえで議論することがわかりやすさの面からも、(反対派としては)その不適切さを明確にするためにも必要だったのではないか。そしてなにより解釈変更を閣議決定しようとしていた今だからこそ、合憲性の議論、憲法論についての議論が必要だったのではないか。


集団的自衛権の問題は今後国会審議に移る。
私は私のまわりで集団的自衛権の合憲性に重点を置いた議論と「説得」を心がける。そして、そういう「私のまわり」が多くの場所で発生し、大きくなることを望む。




集団的自衛権とは何か (岩波新書)

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日本人のための「集団的自衛権」入門 (新潮新書 558)

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政府の憲法解釈

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