読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【読んだ】斎藤節で冠婚葬祭を考えよう/『冠婚葬祭のひみつ』

多くの人が何らかの形で体験するのだけれど、いざ直面するとおろおろしがちなもの。「常識」や「しきたり」があふれるけど、それらはなぜ常識で、いったいいつからのしきたりなのかはよくわからない・・・。

そんな冠婚葬祭を、斎藤美奈子節で考え直してみましょう。

冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)

冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)


著者は本書の目的を以下のように述べている。

第一に、そうした冠婚葬祭をめぐる情報の森にとりあえず分け入って、冠婚葬祭の過去と現在を俯瞰すること。第二に、以上を踏まえた上で、現在にふさわしい冠婚葬祭への対処の仕方を考えることである。(p. ⅰ)

もちろん、「現在にふさわしい冠婚葬祭への対処の仕方を考える」といっても堅苦しいマナーの話が出てくるわけではない。斎藤美奈子の本で、そんなことがあるわけねえだろ!と。

本書は3章構成で、

  • 第1章 冠婚葬祭の百年
  • 第2章 いまどきの結婚
  • 第3章 葬送のこれから

となっている。第1章で冠婚葬祭の近代史をざっとおさらいし、「しきたり」や「常識」がいかに時代時代で変化してきたか、時代や人々の意識の変化にいかに影響されてきたかを見る。
本書で一番おもしろいのはこの第1章だろう。家制度や差別、優生思想に彩られた過去の(もしかしたら現在も)冠婚葬祭を、皮肉を言い悪口を絡ませつつ見ていく。

第2章と第3章では今日の「冠婚葬祭」の中心である婚と葬をとりあげ、現代に生きる我々が婚と葬においてどのような選択肢を取り得るかを紹介している。
先ほども書いたとおりマナー紹介の本ではないし、婚葬について体系的な記述があるわけではない。それでも第3章では「一般危急時遺言」についての記述があるなど、「こんなこともあるんだよ」というお役立ち(?)紹介も随所にでてくる。
斎藤節をたのしみながら、普段なかなか考えない、冠婚葬祭について思いをめぐらせてみるのもよいのではないか。



さて、本書でもっとも印象に残ったのは「はじめに」にあった以下の記述だ。少し長いが引用する。

ちょっと脱線すると、民俗学者の宮田登は、冠婚葬祭の意義について<人々はハレの日と心得ていて、儀礼に参加するわけだが、そのさい必ず前提としてケガレの状況が、それぞれ個人のレベルでともなっている>ことを指摘している。すなわち<ケガレの排除ということがいってみれば冠婚葬祭の一つの目的>なのだと(『冠婚葬祭』)。
さらに脱線すると、つまり冠婚葬祭とは「生物としてのヒト」を文化的な存在にするための発明品だったのではないか。冠婚葬祭という儀礼の衣を剥ぐと、その下からあらわれるのは生々しい身体上の諸現象なのだ。結婚とは一皮むけば性と生殖の公認にほかならず、葬送は肉体の死。元服を迎える十五歳前後は第二次性徴期である。すなわち冠は「第二次性徴の社会化」、婚は「性と生殖の社会化」、葬は「死の社会化」、そして祭は「肉体を失った魂の社会化」。儀礼は整理を文化に昇格させる装置だったのではないか。
(pp. ⅱ-ⅲ)


うーん、なるほど。
葬式に関しては、遺族がゆっくりとお別れできるようになっていないという批判もあるが、納棺、通夜、葬儀、出棺、火葬といった一般的な葬式の順序をたどることで、「死の社会化」を完了していっていると見ることもできる。

『喪の途上にて』で見たような、大事故遺族の喪についていえばこうした慌ただしいまでの別れかたは不適切かも知れない。しかしそうではない*1場合、葬式の「死の社会化」は遺族が死別を受容するために重要な役割を果たしているのかもなあと感じた。それに付随する数多の「しきたり」はくだらないと思うものも多いけどね。



冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)

冠婚葬祭のひみつ (岩波新書)

*1:とまとめてしまうのもアレだが