【読書】ショウペンハウエルにお説教された気分/『読書について 他二篇』

私の趣味は読書 - 準備運動であり、読書が好きな理由としては

  • 自分の知らないことを本から知ることができて楽しい
  • 嫌なことがあっても本を読んでいるときは忘れることができる、リラックスできる

などをあげることができる。
そんなことをいっていたら、ショウペンハウエル先生に本の中から怒られた気分である。

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

「読書は、他人にものを考えてもらうことである」

本書は1)思索、2)著作と文体、3)読書について、の3つの章からなっている。私のようなゆるふわと「趣味は読書」といってるものにとって耳が痛いのは1と3だ。
1の「思索」は、自分のアタマで考えることの重要性を説いた章であるが、ざっくりいうと「いくら本集めて読んでも、自分で考えなけりゃ意味ねーんだよバーロー」ということだ。

いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしてもいくども考え抜いた知識であれば、その価値ははるかに高い
(p.5)

本を読むことはそれ自体、自らのアタマで考えることにはならず、読書のしすぎは考えることに対するアタマの弾力性を失わせる要因になる、とショウペンハウエルは指摘する。

加えて3の「読書について」でもショウペンハウエルはこう言う。

読書は、他人にものを考えてもらうことである
(p. 127)

自分で思索する仕事をやめて、読書に移る時、ほっとした気持ちになるのもそのためである
(p. 128)

私は読書が趣味なのだ、本を読んでいる時間が一番楽しいのだ、だって自分で考えなくていいから。難しい本を読んでいるときも自分で考えているようで、他人の考えたあとをなんとかなぞっているだけだから*1

なぜ自分で考えない読書が楽なのか。それは読み手は決して批判されないからだ。短い時間でわかった気になれるからだ。
最近ふとやることがなくなると、本を探す。本がないとひどくそわそわするのだ。そうした感情を持ったのは、私は自ら考えることを怖がっていたからではないか、と反省している(もちろんリラックスするための読書というのがあり、それは必要なものだ)。

楽したいがために本に手を伸ばしながら、「本読んでいろいろ考えている自分カッケー」なんて思っていたあの頃の自分に、バンドエイド1000枚貼りたくってやりたい気分になるよね。

「本買え、本読め」系との距離感

本は身銭を切って買え!というアドバイスには距離を取りつつ、読むべき本を注意深く選び、そしてしっかり読むというスタンスを貫いていきたい。

たとえば石原千秋著『大学生の論文執筆法 (ちくま新書)』。私が大学生1年生のときによんで、本を片っ端から買いはじめたきっかけの本である。この中で石原は「本を買え!本を読め!」というわけだが、こういうアドバイスには注意した方が良いなと思っている。

こういうアドバイスを真に受けて「よーしジュンク堂で30冊買っちゃうぞ!」と本を買い込み、とにかく読まなければと追い込まれ、大して頭を使うことなくページをめくる・・・ということをやっていると私みたいな人間ができあがる。

ショウペンハウエルが発狂するだろう、いやそれ以前に相手にしてもらえないだろう。

石原千秋は、本を買い、自分の頭を使いながら読むことができたのだろう。だが、私も含めてそんなことができない人は多いだろう。こういうアドバイスは学生に対してはまだいいのかもしれない。考えずにとにかく読むということも経験といえば経験だ。だが、読書だけに時間を割けない状況では、もうすこし考えて読書をする必要がある。

時間は限られている。読まなくてもよい本を捨て、熟読する価値のあるものをしっかり読み、そして自分のアタマで考える。こういうサイクルをめざしてやっていきたいと、私は『読書について 他二篇』を読み、強く思った*2

蛇足

多くの本の中から熟読すべき本を選び出し、しっかりと自分のものにするための読書技法を紹介しているものとしては、
以下のものがおもしろかった。

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

蛇足2

『読書について』は光文社古典新訳文庫からも、新訳ででていた。

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

*1:人間に与えられた時間が有限であることを考えれば、この「他人の考えたあとを拝借できる」というのが読書の効用であるともいえる

*2:『読書について』を読み、こう思いましたーなどというのも恥ずかしくなってくるがしかたない・・・こう思いましたんですもの