アンドレアス・グルスキー展
【美術館】今週末は嫁を質に入れてでもアンドレアス・グルスキー展に行け : 超音速備忘録]
この記事読んで気になったので、1500円握りしめて六本木まで行ってきた。
私は写真に関してはほぼ何も知らない。写真・カメラと言えば周りのちょっとイケてるひとたちが突然持ち始め、カシャカシャととりまくり、時たまfacebookにあげてる、あの背景がぼけぼけした・・・そんなイメージしかない。そんなイメージしかないから、「けっ、写真とかwww」みたいな気持ちもどこかあった。
そもそも写真って何だろうなーという(電車内での)考え
写真は現実を切り取っただけのものなのだろうか
たとえばきれいな景色の写真があったとする。
すごーい!きれー!となるだろうが、じゃあその場にいったらもっとすごーい!きれー!となるのだろうか。いや、きっとそうじゃない(そうとは限らない、というのが正確だろうか)。景色にしても、人物写真にしても、現実よりも写真のほうがずっときれい、というのはままあることだ。
写真は単に現実をきりとったもの、とは言えそうにない。写真はカメラ・レンズという機械・部品をとおして、立ち現れてくる幻想のようなものだろうか。そんなことをいうと、我々は世界を眼という器官を通じて見ている。とすれば我々が見ている世界は現実ではなく、「眼」をとおした幻想かもしれない。
そうすると、現実って何だろうな、そもそも現実なんて存在するのだろうか・・・
(話がずれてきた)
我々が眼で見た世界はどんどん消えていくのに対し、カメラという機械を使うことによって、世界を物理的なものにおとしこむことができる。それが写真だ。
光の当て方、カメラを向ける角度・・・写真を撮る人はさまざまなパラメータをいじくり、世界のとらえ方を変えることができる。写真は、ある一定の大きさのなかに、世界を作ることに他ならないのかもしれない。これは絵画と変わらない。
また、グルスキーは(グルスキーに限らないだろうけど)撮影した写真にデジタル加工をかなり施しているようだ。それを知ったとき「それじゃあ写真の価値なくなっちゃうんじゃないの」と思ったが、後に考えを改めた。
絵画がキャンバスという所与のものに筆をつかって絵の具を重ねていくように、写真は、撮影した写真という所与のものに、デジタル加工という方法を使ってものを足し、時にものを差し引くことで作品化していくのだ。
実際見てきた
そんなことを考えながら国立新美術館に到着。朝イチでいったからわりとすいていた。
いくつかの作品をざっと見た印象は、でかくて、きれい。
縦横数メートルある写真をなんでこんなにきれいに、精緻にとることができるのだろうか、と思った。
なんだかよくわからないけどぐちゃぐちゃした人や物の集まりを撮影した写真や、水平線がたくさん走った整然とした写真・・・写真家はこんなにも写真を作品化できるのかーとおもった。
2つの作り方
いくつか写真を見て思ったのは、グルスキーの撮り方には2つの方法がある、ということだ。その二つとは「雑多なものの中に秩序を見いだす」方法と、「秩序の中に雑多さが紛れ込む」方法だ。
雑多なものの中に秩序を見いだす
おびただしい数の商品が画面上にひろがる。ひとつひとつの商品の名前までわかってしまい,それが雑多な印象を与える。しかし同時に、ものすごく秩序だった印象も抱かせる写真だ。
大勢の人がとくに規則通りに並んでいるわけでもなく、ごちゃごちゃした写真である。しかし、やはり同時に、そこにいるひとたちがなにか大きな規則に従って動いているような静かな感覚も覚える。
純化された世界?
上で述べたような方法で表現された(ように私には見えた)世界は、我々が「眼」という器官や、カメラという機械でとらえているものから、余計なものを消しさった、より純度の高い世界だと思った。そしてグルスキーはカメラと加工技術を駆使し、写真という物体の中により純粋な世界を表現しようとする人なのだと思った。
純化していく過程で余計なものをそぎ落としていくと、雑多さと秩序がバランスするところがある、そのバランスする地点に到達しようとしているのがグルスキーの写真だと私には感じられた。そしてグルスキーの写真はそれがとらえているバランスがあまりに不安定であるがゆえ、ものすごく精緻で秩序だっていて美しいと思いながらも、どこか壊れそうで不安で心にざわつきを感じさせるのだ。
とか何とか言ってみたが、結局、すげー、でもよくわかんねー!っていいながら帰ってきた。
と書いてから文章を見直し、ああ自分よくわからなかったんだな、と再認識する。おわり。