【読んだ】この哀しみがわかるか/『喪の途上にて 大事故遺族の悲哀の研究』
圧倒的であり、ページをめくる指が止まらない、と思いつつもそこに書かれているあまりに重く哀しい事実にページをめくる指が何度も止まる。
人の苦しみを描いていること、詩的であること、重苦しくもしかし読むのをやめられないこと、どこか『苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)』と通じるものがあると思った。
本書は副題にもあるとおり「大事故遺族の悲哀」について書かれたものだ。本書で扱われる「大事故」は航空機事故、列車事故等いくつかあるが、主には1987年の日本航空123便墜落事故である。
大事故で大切な人を喪った遺族へのインタビューから哀しみ、怒り、絶望、そしてかすかな希望をうかがい知ることができる。多くの遺族から話を聞いた著者の野田氏は喪、すなわち死の受け入れと弔いといった行為、にはある程度の段階があることを認めつつも、それに縛られることについては否定的だ。
喪の段階という考え方は、多くの人びとの悲哀の研究から抽出された、理念型でしかない。遺族は二つか三つの段階を往きつ戻りつするのであり、それぞれの段階の持続も強さも違う。
(p. ⅳ)
さきほど「哀しみ、怒り、絶望、そしてかすかな希望をうかがい知ることができる」と書いたが、そう簡単に理解できるほど遺族の感情は生やさしいものではない(生やさしいものではないということは理解できるが、では「どのくらい厳しいものか」というのは正直わからない。理解の範疇を超えるからだ)。それでもその厳しい感情と哀しみから、新たなステージへ移るために、「喪」というのが極めて重要な役割を果たしていることがわかる。喪は単に儀礼的なものではないのだ。
さて、多くの「非大事故遺族」にとっては、本書を「大事故遺族の悲哀」を知る、もしくはそれへの対応方法を知るための参考書とすることができるかも知れない。たしかに、遺族の心理過程の整理、段階ごとの看護や治療のあり方について書かれた箇所もある。しかし野田氏は本書のそうした読まれ方を拒否する。
私は、このようなマニュアル的な配慮について、書きたくはなかった。気遣いとは、相手と自分との個別的な喪のであるからだ。知識ではなく、両者の人間性の交渉だからだ。それでもなお、こうして述べたのは、今日の事故に係わる人々―加害者側、警察、マスコミ、社葬をすすめる人、親族などに、いかに遺族の喪を奪う行為が多いか、あきれるが故である。
(p. 93)
この野田氏の言葉からもわかるが、本書全体を通して野田氏は事故関係者*1の「喪への無理解」に怒り、嘆く。
野田氏のいうことはもっともだ。しかし本書を読んで「非大事故遺族」である私が正直思ったのは「そんなこといったって」という感想だ。
そんなこといったって、こんな大きな哀しみを前にして、適切に行動できる人なんていないよ!と。そのくらい、本書で紡がれる哀しみは重く大きい。
しかし、だからといっていつまでも「そんなこといったって」と嘆いているばかりではいられない。「喪」について少しでも理解し、正常な「喪」の過程を安心してたどることができる社会を実現することをめざして。その想像力を持つために、この本を。
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*1:上の引用にある加害者側、警察、マスコミ、社葬をすすめる人、親族に加え、弁護士、専門家、喪をビジネスと考える人々・・・