集団的自衛権「反対派」が可能性の否定を使うのは、やめたほうがいいとおもった

ちょっと前だけど、8/15にNHKで放送していた「シリーズ日本新生戦後69年 いま"ニッポンの平和"を考える」という番組でちょっと気になること、というか思ったことがあった。

それは、

集団的自衛権「反対派」が「どこの国が日本を攻めてくるのか!(攻めてこないんだから集団的自衛権うんぬんの議論は必要ない!)という反論のしかたはやめた方がいいのではないか

ということ。



鳥越俊太郎氏の発言

番組中どの点で気になったのかというと、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏が「みなさん、他国が攻めてくる前提で話をしているけれども、それは虚構です。どこの国が日本を攻めてくるというのでしょう。中国、北朝鮮と家でも攻めてこない」(大意)といったようなことを発言していた時だ。

この「どの国が攻めてくるのか」という問いそれ自体は、国際社会・政治における現状認識として非常に重要なことだろう。しかし、集団的自衛権行使に反対する主張・意見表明の方法としてはよくない。
なぜなら「反対派」は、「攻めてこないよ大丈夫」といいつつも、武力行使の歯止め問題になると「安部さんは戦争する気なかったとしても、解釈変更したら将来の政治家が戦争するかも知れない!」というようなことをしばし反論として提出する。

「攻められるかも!」ということについては「現状は大丈夫、将来も大丈夫(とはいっていないけど、含意としてはあるだろう)」、一方「戦争を始めるかも!」ということについては「例え現状が大丈夫だとしても、将来は心配!」といっている。この態度が矛盾してしまっている。


結局、日本が攻撃を受けるかどうかも、日本が「自衛権」を名目として戦争に参加するかどうかも、「今は大丈夫、将来はわからない」という問題に過ぎない。
鳥越さんは「将来の戦争参加」について番組中で明言されていたかどうかはわからない。しかしこのような討論番組で、鳥越さんたち「反対派」の隠れた役割の一つとして「中立派の説得」があると考えれば、このような論理展開で反対を表明することは、賢明とは言えない。

そもそも日本が攻撃を受けることがあるのか、という前提に切り込むことはそれ自体大切だろう。しかしそれよりも、集団的自衛権行使容認の問題については正面からぶつかって、「賛成派」の主張の不備を逐一突いていくほうがいいと思うし、それは十分可能だと、いわゆる「反対派」の私は考えている。


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